
毎月メールマガジンで配信している「今月の言葉」に加筆・修正を加えたものを掲載しています。
2012年4月 「”やるぞ!”と”ま、いっか”のバランス」
ヨガを楽しむために私が心がけていること、それは「アビヤーサ」と「ヴァイラーギャ」のバランスです。私にとってヨガは人生を最大限に輝かせるためのとっておきの智恵ですので、これは私が人生を楽しむために心がけていることでもあります。
一般的に「アビヤーサ」は「修習」、「ヴァイラーギャ」は「離欲」などと訳されますが、私はこの二つの要素を
「修習」=やるぞ!と気合を入れて物事に取り組むこと
「離欲」=ま、いっか。と結果を手放せること
という風により簡単な言葉を使って解釈しています。
私たちは何かに対してやるぞ!と気合を入れて取り組んだとき、どうしても自分の思うような結果がほしくなるものです。
これだけがんばったんだからこんな現実を手に入れたい、と。
でも注意深く自分の目の前に広がる世界の真理を観察していくと、やるぞ!と気合を入れて物事に取り組んだとき、
自分の思い通りにいくことは半分ぐらいしかないことに気づくはずです。
自分のことだけならまだしも、自分の周りにいる人たちや世界のあり方まで含めて健康、仕事、お金、人間関係などさまざまな領域に目を移してみたとき、半分くらいはどんなに気合を入れてがんばっても思い通りに行かない。
これはどうやらこの世に生きるすべての人に共通して起こる世界の摂理のようなのです。どんなに健康でも、どんなに仕事に恵まれていても、どんなにお金を持っていても、どんなに人間関係が豊かでも、世界の半分は自分の思うようにいかない。そんな風に世界はできているらしい。
そのどうにもならないものに対してやるぞ!と気合を入れ続け、自分の思う通りに変えてやろう!とし続けると、どんどん自分のエネルギーを失っていってしまい、しまいにもうやーめた!とすべてを放り出したくなってしまう。
これが私たちの多くが陥りやすいパターンなのではないでしょうか?ヨガを始める前の私はいつもこのパターンにはまっていました。すべてが自分の思い通りにいかないと、すべてを投げ出したくなってしまう。私もこのパターンにはまってしまったがために今まで一体いくつの人間関係を破綻させてきたことでしょう(笑)
いくら気合を入れても現実が思うようにいかないとき、世界ってそんなもんだ、ま、いっか。とぱっと気持ちを切り替えてありのままにその現実を受け入れ、自分の望む結果を手放すことができれば、エネルギーを温存してまた次に気合を入れるための準備を整えることができるのかもしれません。きっと古代のヨガの賢者たちは今から何千年も前の時代に世界の摂理に自分たちのリズムを合わせることの重要性に気づいていたんだと思います。
人生の半分を自分で運転してあとの半分は神様にまかせてみる。すると自分が思ってもいなかった素敵な場所に神様は私たちを運んでくれる。それが最近だんだんよくわかるようになってきました。自分の運転は半分でいいのでとても楽チンです。そんな感じで今日は神様がどこに自分を運んでくれるのか楽しみにしながら人生を歩んでいる今日この頃です。
*このコラムは2012年4月、雑誌「Yogini」のWEBコンテンツ「笑ってヨガとも!」に掲載されたものです。
2011年12月「ありのままの世界を信じて」
ヨガの根本経典「バガバッド・ギータ」では神の化身クリシュナが迷える戦士アルジュナに対し“私を信愛しなさい”という言葉を繰り返します。「バガバッド・ギータ」においてクリシュナはアルジュナの”いとこ”にあたるので、最初アルジュナはなぜいとこであるクリシュナをそこまで信愛し、彼の言うとおりにしなければいけないのか当惑します。しかし次第にクリシュナが神の化身であることに気づいていき、最後は全面的にクリシュナの言葉一つ一つをそのまま受け入れ、その言葉に従っていくるようになるのです。
“神”という言葉に対して私たち日本人の多くはなんとなく宗教臭さを感じとり、無意識に拒否してしまいがちですが、“神”の本質は今私たちの目の前に広がる世界すべてに満ちているという考えがヨガ思想の根底にあります。キリスト教では教会が、イスラム教ではモスクが礼拝の場所として尊ばれ、教会やモスクの中で暴言を吐いたり、粗暴な行動をしたりすることは慎むべきであるとされていますが、ヨガの場合は目の前に広がる世界すべてが寺院であり、神殿であると考えます。ですから、目の前に広がる世界に対して不満を漏らしたり悪態をついたりすることはそのまま世界の神聖さを汚す神への冒涜につながるわけです。そしてその神聖な神的エネルギーは当然私たちの身の周りにいるすべての人々の中にも満ちているはずです。
非常に身近な“いとこ”であるクリシュナが神の化身であり、迷える戦士アルジュナを導いていくという「バガバッド・ギータ」の設定は、私たちの本質が人生の困難に立ち向かうことのできる勇敢な戦士であり、その戦士の
本質を解き放ってくれる神様は常に私たちのごく身近な場所にいるのだということを象徴しています。
23歳の時、新卒で就職した出版社で始めた編集の仕事が肌に合わず、私は1年で会社を辞めました。仕事だけではなく、当時の私は人間関係、健康、経済状態、すべてにおいて最悪の状態でした。家族との関係はぎくしゃくし、自由になるお金はほとんどない。常に疲れやすく顔全体には原因不明の発疹が広がっていました。すべて自分の思い通りにしたいのにすべてうまくいかない・・・当時の私は人生の意味を完全に見失い、目の前の世界を忌み嫌い、どうやって人生を終わらせようかと悶々と思い悩む日々を送っていたのです。
そんな最悪の状態の中で、インドに行けばもしかしたら自分の人生の先行きに対する光が見えてくるかもしれない。そんなすがるような思いでインド行きを決め、格安の航空券を握り締め、バックパック一つで特に行き先も決めずデリー行きのエアインディアに飛び乗りました。
そのエアインディアの機内でたまたま私の隣に座ったインド人の男性が私にインドでの滞在先を尋ねてきたので、私は「地球の歩き方」をぱらぱらとめくりながら適当に有名な観光地の名前を答えました。するとそのインド人はそんなつまらないところに行かないでここに行きなさいとしきりにある場所へ行くことを勧めてきたのです。当時の私は他人から何かを勧められても自分の決めたとおりにしないと気がすまない性格でしたので、おせっかいなインド人だなあ、人がどこへ行こうと勝手じゃないか、とそのインド人の言葉を非常に迷惑に感じました。しかし、デリーに到着して次の滞在先を決める段になって、どうしてもそのインド人の言葉が気になってしかたなくなったのです。悩んだ末、私はそこがどんな場所なのかもよく調べもしないまま、自分が考えていたルートを変更して機内で乗り合わせた見知らぬインド人男性の言葉に従って足を運んでみることに決めたのです。
それがヨガの聖地として有名な「リシケシ」でした。
ヨガの“ヨ”の字もよく分からなかった当時の私のヨガとの出会いはこうして始まりました。リシケシでたまたま滞在したヨガのアシュラムで初めて本格的にヨガを学ぶ機会に恵まれ、ヨガが単なる奇抜なポーズを行うアクロバットではなく自分がずっと探し求めていた人生の意味を解き明かしてくれる”智恵”であることを知り、どっぷりとヨガにはまっていったのです。そして気づいたときにはいつの間にか他人にヨガを教えるようになっていました。
現在私は自身のヨガスクールを運営しながら、毎日訪れる多くの素晴らしい生徒たちに囲まれ、自分がこれまでに学んできた様々なヨガの智恵をシェアするという最高の仕事を続けることができる環境に身をおいています。毎日の生徒一人ひとりとの出会いが私に多くのインスピレーションを与え、さらに自分自身を成長させる促進剤になっています。年数回新たな発見のために海外へ旅行し、毎月大好きな温泉を満喫するための経済的、時間的ゆとりも生まれました。身体もいたって健康になり、格闘技をしていた20代の頃よりも疲れにくくエネルギッシになり、20代の頃に目立ち始めた白髪はほとんど消えてしまいました。そして家族との交流も積極的に楽しむようになり、ヨガを通じて互いの人生を分かち合うことのできる最高のパートナーとめぐり逢うこともできました。
もちろん物事が自分の思うようにうまく運ばないこともいろいろありますが、そんなときでも以前のように悲観的になって落ち込まず、すぐに気持ちを切り替えてその状況の奥に隠された意味を読み解きながらその予期しない人生の流れを楽しむことが出来るようになったのです。
今私をとりまいているこれらの状況はすべてたまたまデリー行きの飛行機で隣り合わせたインド人の言葉の先に存在しています。リシュケシュでヨガと出会ってから少しずつすべてを自分の思い通りにしようと固執するのをやめ、他人からの頼まれごとを極力断らないようにし、他人から勧められた事を素直に試してみるようになり、気づいたら今いる場所に辿り着いていたのです。
もし今皆さんの中に以前の私のように悶々とした人生を送っている方がいらしたら、今一度自分の人生の状況をよく見渡してみてください。自分の考えに固執するあまり他人の言葉をはねつけ、逆に自分をがんじがらめにしてしまってはいませんか?
注意深く耳を傾けてみさえすれば、悶々とした状況から抜け出すための“ご託宣”は今この瞬間にも皆さんのごく身近にいる人の言葉から発されているはずです。その“ご託宣”を思い切って信じて自分を包み込む大きな流れに身をゆだねてみれば、その流れの先には美しい楽園が広がってくることでしょう。楽園はいつでもすぐそこで皆さんを待っています。あとはちょっと勇気を持って一歩を踏み出すだけです。
今回でこのコラムは終了となりますが、これからも私はいつも皆さんのそばで共にこの世界という楽園を存分に楽しんでいけることを願い続けています。3年間私の拙い文章にお付き合いいただき本当にどうもありがとうございました。
Great Day Everyday!
2011年11月「すべてはニュートラル」
ヨガの根本経典「バガバッド・ギータ」の冒頭は親族同士の戦いを続けるべきかどうか思い悩む戦士アルジュナに対して、神の化身であるクリシュナが「なぜあなたは嘆くべきでないことに対して嘆くのか?」と問いかけるところから始まります。
私たちは人生において自分の望む出来事が起これば“いいこと”、自分が望まない出来事が起こると“悪いこと”と、一つ一つの出来事を“いいこと”と“悪いこと”に無意識的に仕分けをしますが、この世の中にこれが絶対的に善でこれが絶対的に悪であるという出来事は存在しないのかもしれません。例えばライオンがシマウマを
捕獲するという行為はシマウマの側から見れば自分が殺される”悪いこと”かもしれませんが、ライオンの側から見れば自分が生きていくための食物を得ることができる“いいこと”です。だからライオンがシマウマを捕獲することは絶対的に“いいこと”でも“悪いこと”でもなく、“ニュートラルな出来事”だと言えるでしょう。このように自然界に目を移すと、自然現象の中にはこれが絶対的に“いいこと”でこれが絶対的に“悪いこと”という出来事は
何一つ存在しません。
自然界のすべてが“よく”も“悪く”もない”ニュートラルなこと”の連続で成り立っているのです。そして私たち人間の存在も、もともとはその自然界の一部なのですから、やはり私たちの目の前に起こる出来事もすべてが自然現象であり、“ニュートラルなこと”なのです。“いいこと””悪いこと“というのは人間がそれぞれの価値判断に基づいて独断で貼り付けたレッテルでしかありません。だからたとえ親族同士の戦いであってもそれは本質的には”ニュートラルなこと”であるはずです。冒頭のクリシュナの問いは悩める戦士アルジュナにそんな気づきを与えるために発されたわけです。
私にはもう3年ほど通っている行きつけの蕎麦屋があるのですが、その蕎麦屋のおかみさんは冬場に店に足を運ぶと必ず「今日は寒いですね〜」と辛そうな表情をして私に挨拶をしてきます。そして夏場に足を運ぶと必ず「今日は暑いですね〜」と辛そうな表情をして私に挨拶をしてくるのです。結構年配のおかみさんなので寒さや暑さが身にこたえるのも分からなくもないのですが、冬場に寒いのは冬らしくて大いに結構だし、夏に暑いのも夏らしくて大いに結構だと思っている私にしてみればなんで寒い暑いでそんなに辛そうにするんだろう?とそのおかみさんを見るたびにちょっとかわいそうになってしまうのです(それでも蕎麦が格別に美味しいので足しげく通ってしまうのですが・・・)。寒いことも暑いこともそれが絶対的に“よいこと”で絶対的に“悪いこと”だとは誰にも決められないはずですよね?
よくよく考えてみると私たち一人ひとりが抱えている悩みというのもこの蕎麦屋のおかみさんの悩みと同様、これは“悪いこと”という自分自身の勝手な思い込みが作り上げた幻想で、実は自分が思っているほど嘆くことでも悲しむことでもないのかもしれません。その証拠に世の中には自分が最悪と思っているのとまったく同じ状況下にいてその状況を最高に楽しんでいる人が必ずいるものです。もし私たちがすべての出来事は自然現象であり、自分の人生には“ニュートラルなこと”しか起こらないのだということを忘れずにいられたら、人生が少し
楽になることでしょう。今後ギリシャの財政問題がどうなろうと、日本がこの先どんな方向に進もうと、それもすべて“ニュートラルなこと”なのだとしたら、将来をむやみやたらと案じる必要もないはずです。
目の前の現実がどうしても“ニュートラルなこと”であると思えないときには「もしこのことがニュートラルだとしたら?」と自分に問いを発してみると良いと思います。疑問を発することで脳は自動的にその出来事をニュートラルに捕らえるための視点を模索し始めることでしょう。それでも駄目なら動物もののドキュメンタリーのDVDを
見たり、水族館やサファリパークに行ったりすることもお勧めです。人間であると思い込んでいる自分自身が、すべてがニュートラルである自然界の一部であることを思い出すことができるはずです。
つい先日件の蕎麦屋に足を運ぶと、おかみさんはやはり辛そうな顔をして私に言いました。
「今日は涼しいですね〜」
人の悩みはいろいろです・・・。
嘆くべきでないことに対して嘆かないでいられる自分であれますように。
2011年10月「青の意味」
9月27日から10月9日までの10日間、インドに滞在していました。インドに行くと街中のいたるところに青色をしたヒンドゥー教の神様たちの絵を目にすることになります。私は最初にインドを訪れたとき、インド人はなんて血色の悪い神様たちを崇拝しているのだろう、と思いましたが、このヒンドゥー教の神様が青いのにはきちんと理由があります。自然界で青い色をしているモノって何でしょうか?そうそれは”空”の色です。
私たちの心には一瞬一瞬想念という名の雲がやってきては過ぎ、またやってきては過ぎていきます。雲の形はさまざまで、見ていて気持ちよい雲もあれば、雨雲のようなどんよりした雲もあります。そして時には内側をすべてかき乱す先日の台風のような雲もやってくることでしょう。しかしどんな形をした雲がやってきても、その背後にある青空の存在は変わりません。雲がどんな状態であれ、いつどんなときでもその背後には澄み切った青空が存在しています。
ヒンドゥー教徒たちは自分たちの神様に青空の色を塗ることで、自分の心の状態がどれほどかき乱されても、自分自身の本質は本来雲ひとつない澄み切った青空のように美しく神聖で広大無辺あることを思い出しているのです。青い神様たちは自分自身の神聖な本質を思い出すためのいわばアイコンのような役割を果たして
いるわけです。
10月8日の深夜、経由地であるタイ国際空港を出発した私のタイ航空の飛行機が日本に差し掛かったとき、日本はちょうど朝を向かえるところでした。窓から外を見下ろすとそこには朝日に照らされた雲海が日本全体を覆い隠すように一面に広がっていました。
雲海は非常に分厚く、氷河のようで、まるで現在の私たち日本人の鬱々とした心の状態を反映しているかのようでした。しかし一方、朝日に照らされうっすらと赤みがかった光を反射しているその分厚い氷河のような雲海の上に広がる真っ青な青空の真っ只中を飛んでいる飛行機はまるで幻想の国に迷い込んだような美しさに包まれていました。この神秘的な光景を目の当たりにして、私は日本は大丈夫だ!と妙な確信を覚えたのです。現在はぶ厚い雲に覆われて先行きが不透明かもしれないけれど、必ずこのぶ厚い雲が晴れ、日本全体に美しい青空が広がる時代が再びやってくるだろうと。なぜならその澄んだ美しさこそが私たち日本人の本質であり、その本質は誰にも汚すことはできないのだから。
インドのように身近に青い神様がいない日本では、いくら私たち人間の本質が澄み切った青空のように美しく神聖で広大無辺であると頭ではわかっていても、なかなかそれを思い出すのが難しかったりもします。そんな時私は何か青いものをいつも目に付くところに置いておくことをお勧めします。青空の写真や絵はもちろん、青いグッズなら何でもありです。“青”という色の持つ意味の本質を理解していれば、その青いグッズが自分の本質を思い出すアイコンに早代わりするはずです。
ドラえもんのぬいぐるみ?もちろんありです!
2011年9月「ブルーベリー農家の微笑み」
ヨガの根本経典「ヨガスートラ」には日常生活を平穏に過ごすためのさまざまな心得が記されていますが、その心得の一つに“アパリグラハ”というものがあります。”アパリグラハ”とは“不貪”つまり“貪るなかれ”という意味で外の世界に必要以上に求めない姿勢をさします。私たちは往々にして外の世界に満足できず、”もっと早く、もっと多く”ともっともっとと必要以上に求めてしまいがちです。生活するのに困らないお金があるのにもっとお金がほしいと求めたり、十分な美貌を手にしているのにもっと美しくなりたいと求めたり、お腹いっぱいのはずなのにもっと食べたいと求めたり・・・この“もっともっと”と必要以上に求めてしまう私たちの貪欲さは人生から美しさを奪い、ある種の視野狭窄状態を生み出します。
何かを手に入れようとするとき私たちの脳はいち早くターゲットを手に入れるために、ターゲットに関する情報以外はシャットアウトし、ターゲットを手に入れるために必要な情報のみを選択するようになります。たとえばお腹がすいている状態で街中を歩くと、意識に入ってくるのは食べ物に関する情報ばかりになるでしょう。あそこにクレープが売っている、アイスクリーム屋さんがある、パスタ屋が、フレンチが・・・同じ街を秋モノの服を探して歩くと今度は意識に入ってくるのは秋モノの服に関する情報ばかりになるはずです。生存競争を勝ち抜く上でいち早く目的とするターゲットを手に入れるというのはとても重要なことです。しかし、十分必要なものが手に入っているのに“もっともっと”とさらに求めてしまうと色眼鏡がかかったままはずせなくなってしまい、”物事がよく見えない”状態を作り出してしまうのです。
私は先日千葉に知人の夫婦を訪ねた際、ブルーベリー狩りをしてきました。そして訪れたブルーベリー農家の方から非常に興味深い話を聞きました。ブルーベリーの苗は種を植えてから3年目に花を咲かせ実をつけるそうです。しかし3年目に実がついたことを喜んで収穫してしまうと、4年目以降その苗はまったく成長しなくなってしまうらしいのです。だから3年目に花が咲く前に根元から10センチほどのところで花ごと幹を切る。すると3年目は当然実がつきませんが、幹を切られたブルーベリーは実をつけるためのエネルギーを根に廻すので、4年目以降はどんどん樹が成長して、たわわに実をつけるようになるそうです。また、そのたわわに実った実もすべてを実らせてしまうと一つ一つの実が大きくならないので、小さな実がついた時点で半分以上の実を切り落としてしまうのだそうです。すると一つ一つの実は実を落とさなかったときの倍ほどの重さになり、結局収穫量は変わらず、収穫の手間は大幅に省けるようになるということでした。“もっと早く、もっと多く”という貪欲さをうまく抑制することがブルーベリー栽培においてもやはり重要な鍵になるようなのです。とても澄んだ瞳でブルーベリーの栽培方法を素人の私に丁寧に説明してくれた農家の方の穏やかな微笑みがとても印象的でした。
野田政権が誕生しましたが、どんな人物であれ政策に取り組んで結果を出すにはそれなりの時間がかかるものです。1年やそこらで大きな結果を出すことは、ブルーベリーの苗に1年でたわわに実をつけさせるのが不可能なのと同じでどんな優秀な政治家にとっても到底無理な話のはずです。今私たちに求められているのは、“もっと早く、もっと多く”という貪欲さを抑制して、ブルーベリー農家のように日本の首相の取り組みの結果を“待つ”ことのできる勇気、また消費税増税などの痛みを受け入れることのできる勇気なのではないでしょうか?政権交代ばかりして国が疲弊して日本が世界から相手にされなくなる前に、早く日本国民全員がこの事実に気づくことを切に願ってやみません・・・。
とここまで偉そうな事を書きましたが、大好物であるブルーベリーをかごいっぱいに収穫したことに満足した私は、気づくと家につくのを待ちきれず、帰りの車中で収穫したてのブルーベリーをばくばくほおばっていました。ブルーベリー畑で散々食べたはずなのに・・・。もっと早く、もっと多くと、そのあまりの美味しさに手が止まりませんでした(笑)
野田さん、がんばってください! 大学の後輩として心から応援しています!!
2011年8月「心配性の老婆」
その昔あるところに非常に息子思いの老婆がいたそうです。老婆の二人の息子のうち一人は傘屋を、もう一人はぞうり屋を営んでいました。老婆は晴れた日は傘屋の息子のことを思い、こんなに晴れていたら傘が売れなくて困るだろうと心配をしました。そして雨の日はぞうり屋の息子のことを思い、こんな雨の中ぞうりを買いに来る客はいないだろうと心配しました。こうして晴れの日も雨の日も二人の息子のことを心配していた老婆はいつも元気がなく、日に日に老け込んでいったそうです。
そんな老婆の様子を見かねた近所の寺の住職がある日老婆に声をかけました。「あなたは大変息子思いのようだから、ひとつこういう風に考えてみたらどうかな。晴れた日はぞうり屋の息子のことを思いなさい。晴れた日には多くの客がぞうり屋に足を運ぶでしょう。雨の日は傘屋の息子のことを思いなさい。雨の日には多くの客が傘屋に足を運ぶしょう。そうすれば晴れの日も雨の日も息子さんを心配せずにすみますよ」と。
これは仏教に伝わる逸話の一つです。一見笑い話のようですが、私たちの多くもこの昔話の老婆と同じように物事のネガティブな側面にばかり光を当てて人生を生きてはいないでしょうか?私たち人間は生存競争を勝ち抜いていく過程で物事のネガティブな側面をいち早く見つ出す能力を手に入れました。少しでも人生を危険にさらすような事態をいち早く察知することが自分の身を守る上で非常に重要だったからです。しかし、私たちが生来的に備えているこのネガティブさに光を当てる性向が強くなりすぎると昔話の老婆のように自らの首を絞める結果になってしまいます。
震災後の菅首相の対応に対するマスメディアの非難が相変わらず続いていますが、マスメディアは物事のネガティブな側面に光を当てる天才のようなものです。危機感をあおるようなタイトルをつければつけるほど私たちの防衛本能がその情報を欲しようとするので、取り上げられるニュースは自然と物事のネガティブな側面に焦点を当てたものに偏っていくわけです。東京工業大学で応用物理学を学び原子力発電に対して非常に造詣の深い菅首相は、見方を変えれば現在の日本の原発問題を扱う政治家としてとてもふさわしい政治家だと考えることができます。菅首相を批判している人はもし震災時に原子力発電に対して理解の薄い政治家が対応に当たっていたら一体どんな事態になっていたか一度想像してみるといいでしょう。私は100%保証しますが、現在菅首相に不満を持っている人は首相が新しくなっても1年も経つとその新しい首相に不満を漏らしているはずです。そして菅首相に対する態度は他の誰に対する態度にも同じように表れていることでしょう。どんなに素晴らしい人物が目の前に現れてもその人の持っているほんのわずかなネガティブな側面に全焦点を当て批判する
癖がついてしまっているのです。
そしてそういう人は眉間にしわがより、口がへの字に曲がってほうれい線が深くなり、昔話の老婆のようにどんどん老け込んでいきます。そんなに目の前に広がる世界が嫌で不満だらけなら早くこの世を去らせてあげようと神様が優しく配慮してくださるんですね(笑)。世の中を見渡してみると物事のネガティブな側面にばかり焦点を当てて昔話の老婆のようにいつも不満そうな顔や心配そうな顔ばかりして生きている人がいかに多いことでしょうか。
私は最近「飛蚊症」という症状を発症しました。目の前に蚊が飛んでいるような黒い小さな点が見えるようになる症状で、原因は網膜の老化のようです。実際の蚊ならたたけば消えてくれますが、飛蚊症の蚊はいくらたたいても消えてくれません。最初はやっかいなことになった!と何を見てもその黒い点にばかり意識をフォーカス
していました。小さな黒い点が気になって仕方がなかったのです。しかし、しばらくして気づきました。確かに黒い点が見えるけれど、それ以外の部分は今までどおりごく正常に見えているということに。光を失ったわけではないのだから別に気にすることもないか、と黒い点に意識をフォーカスするのをやめ、目の前に広がる世界の美しさに再び目を移したとたん、存在しているはずの黒い点はまったく気にならなくなったのです。この文章を書いている今も意識をフォーカスすれば黒い点は見えますが、今はそれも自分の世界の見方の個性だと思って、黒い蚊たちと一緒に人生を歩むのを楽しむようにしています(笑)。
人生否定的な側面に焦点を当てれば地獄が、肯定的な側面に焦点を当てれば天国が広がってきます。そして私たちはいつでも自分の焦点の当て方一つで天国と地獄を行き来できるのです。さて、みなさんはどっちの世界で生きていきたいですか?心配性の老婆になりませんように。
2011年7月「トイレの彼」
ヨガの根本経典「ヨガスートラ」にはこんな一説があります。
「ダーラナーとは心を一つの対象に縛り付けておくことである」 ヨガスートラ3.1
“ダーラナー”はヨガの八支則の第六段階で、一般的に「集中」と呼ばれる段階です。集中とは凝念つまり“今の心”(念)を凝縮することです。ヨガスートラの編纂者でありヨガの開祖でもあるパタンジャリは、ヨガの根本経典の中で常に心を“一つの”対象に縛り付けておくことができるようになることがとても重要であると説いているのです。これはなぜでしょうか?
少し極端な例を思い浮かべてみましょう。目に前に極上のフランス料理のメインディッシュと中華料理のメインディッシュが置かれていて、とてもおいしそうだからといって二つのメインディッシュを同時に口に入れると何が起きるか?あるいはとても美しい音楽が収録されたCDが二枚あり、早く聴きたいからといって二枚を同時に再生すると何が起きるか?美味しい料理はぐちゃぐちゃになり、美しい音楽はただの雑音になってしまいますよね?
どうやら集中の対象が分散するとそれだけ私たちの目の前に広がる世界からはどんどん美しさが失われていってしまうらしいのです。これがパタンジャリが心を常に“一つの”対象に縛り付けておくことを奨励している大きな理由です。
とはいえ、忙しく先を急ぎがちな毎日を送っているとなかなか一つの対象に意識を集中させ続けるのは難しかったりするのも事実です。携帯で話をしながら洗濯物を干したり、音楽を聴きながら本を読んだり、テレビを見ながらヨガのアーサナの練習をしたり(笑)先を急ごうとする私たちの意識が集中の対象をなかなか一つの場所に落ち着かせてくれないのが多くの人の現状ではないでしょうか。日常生活の中で自分が純粋に一つの対象に集中している時間を考えてみると、驚くほど少ないことに気づくことでしょう。しかし、もし効率を重視するあまりこうして集中の対象を分散させることで、先ほどの例のようにせっかく手に入るはずの美しさを台無しにしているとしたら、これはちょっと問題です。
先日伊豆へドライブへ出かけた際(最近よく伊豆へ行っているんです)、海老名のパーキングエリアで車を止め昼食をとることにしました。昼食をとる前に用を足そうとトイレに入ると、なんと携帯でメールを打ちながら用を足している男性に出会ったのです!公衆トイレで携帯の操作をしながら用を足している人間を見たのはそれが初めてだったので、私は自分の用を足しながら興味深くちらちらと観察しました。すると私と同年代と思われるその男性は片方の手で携帯を操作し、もう片方の手で尿の向きをコントロールしているのですが、携帯のメールも用の方も遅々として進まないらしく、私よりずっと先にトイレに入っていたはずの彼は私がトイレを後にするときになってもずっと便器に向かいながら携帯を操作し続けていたのでした。用も足したいしメールも送りたい。どちらも急ぎたいという彼の気持ちはわからなくもないのですが、集中の対象が分散してしまったため、結局
どちらの作業も極度に中途半端になり、時間を大幅にロスすることになってしまっていたのです。しかも当の本人はその事実にまったく気づいていない(笑)。いくら返信を急いでいるからといってそんな状況でメールをもらったら相手も微妙ですよね・・・
いくら忙しくてもこうはなりたくないものだ・・・、と思いながらトイレを後にした私ですが、先日このコラムでお伝えした「写し鏡の法則」があるので目の前に広がる世界はすべて自分の内面の投影物なはずです。こんな自分どこにいるんだろう?といぶかりながらよくよく自分の私生活を振り返ってみると、最近毎日のように朝食をとりながらネットサーフィンをしていることに思い当たりました。そして入れるか出すかの違いだけで私もトイレで出会った彼もやっていることには大差がないことに気づいたのです。朝食をとりながらパソコンのモニターに意識を分散させることで毎日本当の朝食の美味しさを失ってしまっていたばかりでなく、朝食の時間が大幅に伸びて時間をロスしてしまっていたのです。効率を優先させようとする思いが逆に自分の人生から美しさ奪う結果を招いていた・・・この事実に気づかせてくれた“トイレの彼”に今では感謝の念でいっぱいです(笑)。
それが何であれ、分散しがちな心を一つの対象に本当に集中させることができたとき、目の前の世界にはいつでもダイヤモンドをちりばめたような美しさが満ちてくるのかもしれません。もし今目の前に広がる世界に美しさが足りないと感じたら、ちょっと考えてみましょう。今自分は何に心を集中させているだろうか?集中の対象を欲張りすぎて“トイレの彼”状態になってはいないだろうか?と。
2011年6月 「足りなかった100円」
ヨガの根本経典「バガバッド・ギータ」の中心的な思想のひとつに“神への信愛”というものがあります。神を信じて愛していきましょう。このような言葉がヨガの根本経典には幾度となく繰り返し登場してくるのです。“神”と聞くと私たち日本人は無意識に宗教くさいと拒否反応を起こしてしまいがちです。しかし、ヨガにおける“神”の存在とは私たちの目の前に広がる世界すべての中に偏在している神聖なエネルギーのようなものであると考えられていますので、神を信愛するということは目の前に広がるありのままの世界を信じ、愛していきなさいということを意味するのです。
キリスト教では教会が、イスラム教ではモスクが神聖な場所とされていますので、教会やモスクの中で暴言を吐いたり、不健全なことをしようとするキリスト教徒やイスラム教徒はいないでしょう。それと同じようにヨガでは目の前に広がる世界すべてが寺院のようなものであり、目の前に差し出される世界に対して不平不満を言うことはその寺院の神聖さを汚す神への冒涜のようなものであると考えるのです。もし神が完璧な存在ならこの世に不必要なものなどひとつもないはずです。だとしたらたとえ自分の望まない出来事が起きたとしてもその出来事の背景には必ずまだ自分が気づいていない何かしらの深い意味がこめられているはずでなのではないでしょうか?
自分が望まない出来事が起きたときに思い切ってその出来事を信じて愛してみる。自分の周りの流れが自分の思っているほうに向いていなくても、思い切ってその流れに身を乗せてみる。するとその先には自分が考えていたよりもずっと大きな可能性に満ちた世界が広がってくるのかもしれません。
ゴールデンウィ―ク明けの火曜日、私は溜まっていた疲労を癒すために車を走らせ日帰りで伊豆の温泉へ行ってきました(私は大の温泉好きでもあります)。目的地である波打ち際に作られた絶景の露天風呂は、ゴールデンウィーク明けということもありほぼ貸しきり状態。当日は朝からあいにくの雨だったのですが、温泉に到着した頃には雨も上がり、なんと露天風呂から海に大きくかかる美しい虹が見えたのです。こんなに素晴らしい癒しを得ることができて、本当に伊豆まで車を走らせて来てよかった。これは何かいいことがありそうだぞ!とエネルギーチャージできた私は気分よく帰路につきました。その後途中小田原で駅前のコインパーキングに車を止め、見つけた蕎麦屋でおいしい蕎麦を二人前完食し、駅中のスターバックスでカプチーノを飲んで一服した私はまさに身も心も満腹の状態でした。
そしていざ帰路に着くためコインパーキングから車を出そうと清算機にチケットを入れると、駐車料金が600円だったのに財布の中には500円玉一枚しかはいっていません。あとは一万円札だけしかなく、その清算機は1000円札までしか受け付けない仕組みになっていたので、100円足りないがために私は車を再び戻して近く
のコンビにまで小銭を崩しにいかなければいけなくなったのです。
さっきまで調子がよかったのに、たかだか100円のためになぜ早く帰路に着きたいのに足止めを食らわなければいけないのか!?以前の私だったらそう思って憤慨していたかもしれません。しかしこのとき私は“神への信愛”というバガバッド・ギータの言葉を思い出し、これは一体どういう流れなのだろう?と意味を探りながらコンビニを探しました。そして入ったコンビニで小銭を崩すために見つけたのが、以前から気になっていた「金子みすず詩集」でした。そうか、これは金子みずずの詩集を買えということなのか?自分の目の前に差し出された流れの意味がわかった気がした私はうれしくなって、詩集を手にレジに並んだのですが、今度はレジが大行列でなかなか前に進みません。そのレジの行列の長さはなぜ平日夜の小田原駅前のコンビニにこんなに人がいるんだと不思議になるくらいでした。そして1,2分ほどレジ待ちをしているうちに、蕎麦を大量に食べたためか急激に便意をもよおしてきたのです。そこで私は詩集を清算する前にトイレを借りて用を足すことにしました。そして、すっきりしてトイレから出てくると大行列だったレジはうそのようにがらがらになっていました。こうして「金子みずず詩集」と小銭を手にした私はすっきりした気分で意気揚々と帰路につくことになったのです。
そして、帰路の車を走らせながら私は気づきました。もしあの時コインパーキングで清算金額と財布の中身がぴったり合ってそのまま車を出していたら、バイパスを通って帰路に着く途中で便意を催し、時速160キロの猛スピードでトイレを探さなければいけない事態になっていただろうことに(笑)。
コインパーキングで100円足りなかったこと、コンビニのレジが大行列していたことも全部本当に自分が必要な場所に自分が足を運ぶための必要不可欠な出来事だったんだなあと。神様は本当に優しいお方です・・・。
もし今自分の目の前に差し出される現実に不満を抱いていたら、よくよく考えてみる価値がります。今自分の目の前に差し出されているその流れは本当のところ今自分をどこに運ぼうとしているのでしょうか?そしてその流れの先にはどんな世界が広がってくるのでしょうか?神がいるとしたら神はそんなに残酷な方なのでしょうか??
2011年5月「こだまでしょうか」
ヨガの根本経典ヨガスートラにはこんなくだりがあります。
「煩悩という根因がある間は、業報が生ずる。業報というのは境涯と寿命と経験である」
ヨガスートラ 2.13
“自業自得”という言葉がありますが、ヨガでは目の前に広がる現実はすべて自分の行い
(カルマ・業)の結果であると考えます。よい行いにはよい結果が、悪い行いには悪い結果がついてくる。それがよいものであれ、悪いものであれ、私たちは必ず自分自身の行いの報いを受けなければいけないというわけです。ですから今の自分の人生がよいものであろうと悪いものであろうとそれはすべて自分自身のこれまでの“行い”の結果であり、
すべては自己責任、他の誰の責任でもないのです。
このカルマの考え方は物事がうまくいかずに思わず他人を非難したくなったときの自分への戒めとしてとても有効です。私たちは物事がうまくいかなくなるとつい自分の周りの他人を責めたくなります。なんでこの人はもっと私のために尽くしてくれないの?とつい不平不満をぶちまけたくなるものです。しかし、それがいいものであれ悪いものであれ、目の前に広がる世界はすべては自分の行いの結果であることを忘れないでいられれば、せめるべきは自分自身であり、反省すべきは自分自身の行動のあり方であることを冷静に分析できるようになるはずです。スワミ・サッチダーナンダが言うように人生はすべて”自分自身の創作”なのです。ですから他人が自分に尽くしてくれない、誠意がないと感じたら自分に問いかけてみる必要があります。果たして自分は常日頃どれだけ他人に尽くしているだろうか?どれだけの誠意をもって他人に接しているだろうか?と。
そういう意味で世界はすべて自分という存在の映し鏡なのかもしれません。今回の震災の影響でCMが差し替えになり歌手のUAの読誦で一躍有名になった金子みすずの「こだまでしょうか」という詩がありますが、あの詩はまさにヨガのカルマの考え方を体現した詩だと思います。
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「ばか」っていうと
「ばか」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
金子みすず「こだまでしょうか」より
私たちの目の前に広がる世界には常に”私”がこだましている。目の前の世界がすべて自分の写し鏡であるとしたら、こんなに興味深いことはないですね。目の前の人が笑っていたら自分内側に笑いがある証拠。目の前の人がむっとしていたら自分がむっとしている証拠です。そして今自分の周りにいる人は男性が多いですか?女性が多いですか?男性が多ければ今自分の中で男性エネルギーが、女性が多ければ女性エネルギーが自分の内側で高まっているのかもしれません。そして年齢層は?ファッションセンスは?それらがすべて今の自分の写し鏡だとしたら・・・?
いや、今目の前にあるようなおぞましいものは自分は持っていないよ!ともしかしたら思うかもしれません。でもそんなおぞましいものも含めて自分の知らない自分、無意識の領域の自分がすべて目の前の世界に現れている。こだましているんじゃないか。今私はそんな感じがしています。今のあなたの状態はこんな感じですよ!もしかしたら世界は一瞬一瞬優しく私たちにそんなメッセージを差し出してくれているのかもしれません・・・。
先日一日10時間、5日間のティーチャートレーニングを無事終えて帰宅しようと乗った電車の車内の広告にふと目を移すと、大きな「格安英会話」の広告がひとつ、「住宅展示場」と「新築マンション」の広告がひとつずつ、「自動車保険」の広告がひとつ、とともになぜか小さな小さなジョッキの写真が入ったビールの広告がひとつ目に飛び込んできました。それは確かにすべてその時の私の意識のこだまでした。そう今とても英会話を勉強したいんです。そして家がとてもほしい。車と保健の事が気になっている。そしてビールも飲みたかった。しかもほんの小さなジョッキ一杯分(笑)。
こんなところにも自分はこだましてたんだ、と思ったらなんだかとても嬉しくなりました。
さて、今皆さんの目の前にはどんな世界が広がっていますか?
2011年4月「人生のレッスン」
私たちは何故この世に生まれてきたのか?今多くの皆さんが考えているであろうこの問いに対する答えがヨガの経典「ヨガ・スートラ」に記述されています。
「見られるもの(この世界)は見る者(私たちの真の姿)に経験を与えるためだけに存在する」
(ヨガ・スートラ2・21)。
以前にもご紹介したこのスートラ。今私たちの目の前に広がる世界は、私たちがしかるべき経験を積んで自分を成長させ、自分の“真の姿”を思い出していくために与えられた人生修業の場、いわば学校のようなものである。
というのが冒頭の問いに対するヨガの答えです。
私たちは高校や大学を卒業し社会に出るともう学校は卒業したと考えがちですが、人生を歩み続ける限り私たちは自分を成長させるために必要な“授業”を受け続けていかなければいけません。私たちの“真の姿”は何事にも乱されることのない平穏で光で満ちた状態であるとヨガでは考えます。私たちは生まれた瞬間にこの世界に“入学”してからいくつもの課題をこなし、試験を受け続けていきます。その試験はだんだん難しいものになっていき、最終的に何が起きても平穏で満ち足りた本当の自分の状態を不動のものにすることができた時、ようやく私たちはこの世界という学校を卒業していくことができるのです。
そういう意味で今私たちの目の前に広がる現実は、たとえ一見どれだけ不条理に思えても、自分が成長していくために深い意味を持って差し出されている貴重な講義の連続だと言えるでしょう。
今回の未曾有の震災に直面して、今皆さんの中にはかつてないほど大きな価値観の変化が生じていることと思います。まるで期末試験と運動会と修学旅行を一度に経験するようなインパクトのある授業を今回の震災は私たち日本人全員に提供しています。ですから逆に考えるとこれはかつて日本人が経験したことのないほど急速に日本人が変わり、新しいステージに上がっていくための試練であると私は思っています。そろそろ小学校は卒業しましょうね!そんな感じで私たちのお尻を叩くようなメッセージが今世の中のあちこちにあふれています。
今回の特別授業でどれだけ深い学びを得ることができるのか、
今私たちは大いに試されているのです。
以下に現在今回の震災によってさまざまな人生の“授業”を受けている方へ、私からのメッセージを送らせていただきます。長文ですので、もしあまり自分に関係がないと思ったら読み飛ばしてください。
今回の震災で身近なひとを亡くされた方へ
亡くなられた方は「他界」すると言いますが、この言葉はヨガの根底にあるインド的な死生観を的確に表した言葉だと思います。人は死ぬとどこへいくのか?人間誰もが問わずにはいられないこの究極の問いに対するヨガの答えは「生まれ変わる」というものです。人が死ぬときに人生でやり残したことがあるとちゃんと生まれ変わった先の人生で続きができるような場所に生まれ変わることができるのだとヨガでは考えます。いわば“転校”するんですね。もう同じクラスで一緒に勉強することはできなくなるのですが、ちゃんと転校先でまた新しい仲間と必要な勉強を続けていくことができるのです。転校先は必ずしも人間であるとは限りません。インドへ行くとああ、あなたそこに転校してきたのね!っていう動物をよく見かけたりします(笑)。
ただ、転校には例外があって死ぬときにもう人生でやり残したことは一つもない、本当にいい人生だったなあ、と満ち足りた状態で亡くなった方はもう転校することなくこの世界を“卒業”していくことになります。“卒業”するとどうなるのかと言うと、もう二度と形をとることなく風や光のような存在として、あるいはエネルギーのまま
世界に満ちていくのです。そういう意味で有名になった「千の風になって」の歌はこの“卒業”した人の状態をとても的確に表していると思います。だから結局“転校”するにしろ“卒業”するにしろ、「他界」すると言ってもその方はこの世界から消えてしまったのではなく、形を変えて私たちのすぐ側に引き続き居続けているのです。
昔は私もこんなことは信じていませんでした。でも今はこれが真実なんだと確信しています。だから今回の身近な方を亡くされ方はぜひ愛する方の「他界」を温かく見守ってあげてください。愛する方は今でもあなたのすぐそばにいます。そしていつもあなたをやさしく包みこんでいます。
あなたは決して一人になったわけじゃありません。それを忘れないでください。
被災地で大変な思いをされている方へ
私は幼少期を仙台で過ごしており、また両親とも青森県出身であることもあり、東北人がどんな気質を持っている人たちなのかはとてもよく知っているつもりです。東北人は非常に我慢強く、寡黙で、自己主張の苦手な気質を持っているので滅多なことでは不平不満を言わない、そんな人たちです。そんな日本人の中でも特に我慢強い皆さんが「辛い」とこぼすなんて、それがどんなに辛いことか想像するにあまりあります・・・。先日ボランティアで現地入りした私の生徒の一人から現在も続く皆さんの窮状を改めて聞いて本当に胸を痛めています。食べ物もない、水もない、暖をとることもろくにできない・・・今は三学期分の中間試験と期末試験が一気にやってきた、そんな状態だと思います。一日一日が辛い試験の連続で、本当に心も身体もボロボロになっていくように感じるかもしれません。でもこの集中試験を乗り越えることができたら、あとはもう何一つ怖いものはなくなることでしょう。今皆さんは世界中のどの人たちよりも早く人生のステージを駆け上がっています。ここを乗り越えれば全てが光で満ちた美しい世界が待っているはずです。あとちょっとの辛抱です。ぜひ乗り越えてください。
震災で心が不安定になっている方へ
心が弱っている時、ネガティブになっている時は無意識にネガティブな対象に意識を集中させがちです。心は常に同じ周波数を持った対象に意識をフォーカスする傾向性を持っています。しかしネガティブな対象に意識をフォーカスするとネガティブなバイブレーションが入ってきて心の状態はよりネガティブになるという悪循環を生んでしまいます。ですから自分がネガティブなバイブレーションによって混乱しているなと感じた時は、まずゆっくり眼を閉じて自分がネガティブになっていることを客観視してみてください。そしてネガティブになっているありのままの自分の状態を認めてあげましょう。今回のような未曾有の事態に直面してネガティブになることは人間として当然のことです。悪いことではないのです。ただ、そうやって落ち着いて自分の内側で起こっていることが見えるようになってきたら、少しずつ意識的に目の前にある美しいものに意識を向け変えていく練習をしてみてください。
夜だったらロウソクの炎や星などがいいでしょう。日中晴れているようでしたら青空やきれいな花がいいかもしれません。そしてもし聞けるようでしたら美しい音楽。何でもいいです。美しいもの、光輝くものに意識をフォーカスすると自分の中に美しいバイブレーションが入ってきて、少しずつネガティブな闇が薄まり、心が光で満たされていくはずです。ネガティブな現実が満ちている中で美しいものに意識をフォーカスするのは本当にチャレンジングなことだと思います。でも皆さんなら必ずできるはずだと信じています。
少し離れた場所から今回の震災を見守っている方へ
今みなさんはとてももどかしい思いをしていることと思います。飢えと寒さで直接の被害を免れた人たちが次々と亡くなっていく被災地の惨状を見て何とか手を貸してあげたい。でも現地へ行くガソリンや食糧もままならない状態でボランティアに行くこともできないし、自分の生活もあるので義援金を送ることぐらいしか手を貸すことができない自分へのもどかしさ・・・今回の震災と同じようなもどかしさを私は初めて渡印した時にも強く感じたことがあります。目に映る人たちの圧倒的な貧困を前にして、何とかしてあげたいけれど何もできない自分の無力さに対するもどかしさ・・・。
でも繰り返し渡印する中で私は結局人は自分に与えられた授業をまじめに受け続けるしかないんだと気づきました。校庭では過酷な体育の授業が繰り広げられている。でもその授業がいくら過酷に見えるからと言って自分の教室を飛び出してその授業に加わるのはおかしなことですよね。私たちがやるべきなのは今自分の目の前に差し出されている授業、つまり自分のやるべき仕事に集中することです。一見過酷に思えても、他人が受けている授業にはやはり必ず意味があるもの。よそ見をして他人の授業に干渉してせっかく与えられた自分の授業を台無しにすることは避けましょう。でも優しいあなたはそれでも他人のことが気になってしょうがないかもしれません。もしもどかしくてしょうがないなら休み時間(休日)を使って今大変な授業を受けている方をサポートしてあげてください。休み時間をどう使うかは私たちの自由です。私ももう少しライフラインが整ったら休日を利用して被災地へ向かうつもりです。
東電の関係者の皆さんへ
私は東電の関係者でも、株の持ち主でもありませんが、今皆さんのことをとても心配しています。今回の福島原発の事故を人災と言う人がいますが、誰が今回のような大地震と津波が原発を襲うと予測できたでしょうか。もしわずかでも予測できていたら即座に万全の対策を練る、そんなまじめで几帳面な方でないととても原子力発電の管理などできるはずがありませんよね。何十年もの間都心部に貴重な電力を供給し続けてきた福島原発の恩恵を私たちは有り余るほどいただいてきました。毎年毎年寒い冬の日をしのぐためにエアコンを使って部屋を暖めることができたのも、暑い夏の日にクーラーを使って涼むことができたのも、震災後もいちはやくヨガのレッスンを再開することができたのも、今こうしてパソコンを使って文章を書き続けることができるのも、すべて東電の皆さんが今も必死にがんばって私たちのために貴重な電力を供給してくださっているお陰です。皆さんの仕事は本当に素晴らしい仕事です。私たちの生活に光を与えてくれる本当にかけがえのない仕事だと思います。
だから今不可抗力によって醜い姿になってしまった原発と東電の皆さんに心ない非難が集中しているのを見て私はとても心を痛めています。皆さんは今非常に大変な試験を受けていると思います。毎日これだけ素晴らしい贈り物をいただいているのに私には皆さんがこの大変な試験を乗り越えることを心の中で応援することしか
できません。そんな私をお許しください。でも私はいつでもあなたたちを応援しています。ファイト!
長々と読んでいただきどうもありがとうございました。
最後になりますが、私自身もつい先日とても貴重な人生の“授業”を受けてきましたのでお伝えします。今週火曜日の夕方、FM TOKYOの番組に生出演した時のことです。初のラジオ出演。マイクの前に向かった私は普段のレッスンと勝手が違い生徒の顔が見えないことでぎくしゃくしてしまい、うまく言葉が出てこなくなって生放送中なのに変な“間”を作ってしまいました。し〜〜ん・・・公共放送なのに。放送を聞かれていた関東一円の方々、びっくりしたことと思います。FMTOKYO皆さま、本当にご迷惑おかけしました!放送委員は私にはまだ無理だったようです・・・(苦笑)。もっともっと国語の授業を受けて言葉の使い方を学ばなければいけないと再確認しました。
ちなみにこの人生の授業、学校で小学1年生と6年生が一緒に授業を受けることがないのと同じように、同じ人生の授業を受けるために集まるのは常に自分と同じ人生の経験値をもったメンバーになるようです。つまり今周りにいる人たちは全部自分の同級生というわけです!
さて、皆さんは今日どんな顔ぶれの同級生とどんな授業を受けていますか?
LIFE IN PROGRESS
2011年3月「東日本大震災に寄せて」
私は幼少期の多くを宮城県で過ごしていましたので、今回の地震による被害には胸の裂けるような思いをしております。幸いにも家族や親戚は無事でしたが、 今回の地震でテレビから繰り返し流されるこの世のものとは思えないような被災地の映像、また福島の原発の状況は私たちに計り知れない悲しみと不安を与えています。今回の地震の報道によって心の状態が不安定になってしまっている方も多いかと思います。
心で心をコントロールするのは大変ですが、身体や呼吸からアプローチすると意外なほど心の状態を安定させることが可能です。私がお勧めするのはスーリャナマスカーラを数回行った後、コブラのポーズをじっくりと10呼吸、身体をねじるポーズ(アルダ・マッチェンドラ・アーサナ等)を左右10呼吸ずつ、そしてハラ・アーサナ(鋤のポーズ)をじっくりと20呼吸ほど行うというシークエンスです。10分ほどで終わるこのシークエンスを行うだけで不安定な心の状態を落ち着け、冷静さを取り戻すことができるはずです。
また、睡眠をきちんととり、栄養のあるものをたくさんとってください。不眠ぎみの方はハラ・アーサナを寝る前にじっくり行うと睡眠に入りやすくなるはずです。また食事は肉よりも野菜のほうが心を落ち着かせ、身体を疲れにくくする作用を持っています。テレビは情報を手に入れるための手段として重要ではありますが、被災地や原発の凄惨な映像は多くの不安を喚起し、無駄な混乱を心に生じさせがちです。もし自分の内側が過剰な情報によって混乱していると感じたら、テレビを消して散歩をしながら外の空気に触れることも一つの手です。また、一人でいるとどうしても不安が増幅しがちです。ぜひご家族やご友人と密にコミュニケーションをとってください。コミュニケーションをとるだけで多くの問題が解決することでしょう。
自分自身がエネルギッシュな時はじめて自分の力を他人のために分け与えることが可能となります。そして私はリラヨガ・インスティテュートにいらっしゃる生徒の皆さん全てがゆるぎない will power, logic, love を携えていること、そして、かつてない難局にある日本を変えていく光になることを信じています。
震災後に敢行したティーチャートレーニング中、スタジオのラウンジにあるソファに脱ぎ捨ててあった生徒さんのヨガパンツには ”LIFE IN PROGRESS"のタグがついていました。
人生進行中!
人生には常にその時その人が成長するために最も必要な出来事しか起きない。
昔はわかりませんでした。
でも今は確かにそう確信しています。
今こそこれまでに身に付けたヨガの力を借りて、一緒にこの困難な状況を乗り越えていきましょう!
LIFE IN PROGRESS
2011年3月「結果の放棄」
ヨガの根本経典「バガバッド・ギータ」にはこんな一節があります。
「知性を備えた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する」(バガバッド・ギータ2.51)
私たちは何か行為をする時、大抵の場合無意識にその行為の結果を求めているものです。これだけ仕事を頑張っているんだからこれだけ給料がほしいとか、これだけアーサナの練習を頑張っているんだからこれだけ身体が柔らかくなってほしいとか、これだけ相手につくしているんだから相手にももっとつくしてほしいとか・・・。
そして行為の結果が思うように手に入らなかった時私たちは何故?と思い患い、人生に束縛されてしまうのです。このような人生への思い患いから解放され、何事にも乱されることのない平安な心の状態を保つには、これをしたんだから結果がこうなってほしいという“結果への執着”を手放すこと(結果の放棄)が重要であるとヨガの経典は説きます。
しかし、自分の行為の結果への執着を捨てるというのは簡単そうでいて、いざ実行しようとするとなかなか難しかったりするものです。
先日池袋から山手線に乗って帰宅する途中、新宿駅で10代と思しきカップルが乗ってきました。夜10時を過ぎていたので車内は満員に近い状態だったのですが、男の子が大きなバッグを肩から掛け背中側に回したまま乗り込んできたので、そのバッグが私の腹部を強く圧迫する形になりました。
“く、苦しい・・・。
こんな満員電車でバッグを背中にかけたまま乗り込んでくるとはなんて非常識な!”
そう思った私はとっさに
「君ねえ、満員電車の中では大きなバッグは下ろして足元に置かなきゃだめだよ。周りの人に迷惑でしょ!」
としっかりと一ヨガ教師らしく男の子をたしなめ・・・
たかったのですが、小心者の私にはもちろん満員電車の中でそんな声をあげられるはずもありません(笑)
圧迫された腹部でバッグを軽く押し返し、なんとかバッグが邪魔であることを男の子にアピールしようとしたのですが、女の子とのおしゃべりに夢中になっている男の子はそんな私のアピールに気付くことはありませんでした・・・。
そして二駅ほどそんな“無駄な抵抗”を続けたところで、ようやく私は腹部を圧迫している男の子のバッグをどうにかするという思いを捨て、“もう今日はこうやっておなかを圧迫されて帰ろう。というかこれはウディーヤナ・バンダ(下腹部を引っ込めるヨガの行法)を練習しろというメッセージかも??”とありのままの自分の状況を受け入れることにしたのです。するとどうでしょう、その瞬間電車の扉が開き、バッグを提げていた男の子は女の子を残し「じゃあね!」と言って電車から降りていってしまったのです。
こうして私は“束縛”から解放され”患いのない境地”を手に入れたのでした(笑)
夜の山手線、原宿駅での出来事です・・・。
私たちは誰でも“これだけがんばったんだから結果はこうなってほしい”とどうしても自分の行為の結果を求めてしまうものです。しかし、人生がすべて自分の思った通りに運ぶ人間は一人もいません。自分がやるべきことをきちんとやった後は“あとはすべて天が決めること”と思い切って行いの結果を放棄して、目の前の現実をありのままに受け入れてみると、意外と”束縛”からの解放はすぐにやってくるものなのではないでしょうか。
それができるなら、まさに今この瞬間にも!
結果の放棄、いつも忘れないでいられるようにしたいものです。
2011年2月「上を向いて歩こう」
ヨガの根本経典「ヨガ・スートラ」には“アーサナの実践が確立された時、人は外的な世界に存在する二元的なものの影響をうけなくなる”というスートラ(経文)があります(ヨガ・スートラ2.48)。ヨガのアーサナ(ポーズ)は様々な姿勢をコントロールする練習ですが、もし姿勢を完全にコントロールすることができれば心の状態も不動になり、何事にも動じることが無くなる。つまり姿勢一つで完全に心をコントロールすることが可能だとヨガの経典には書いてあるのです。
私たちの心と身体は表裏一体の関係にあるので、身体が変化すれば心が変化し、逆に心が変化すればそれに伴い必ず身体も変化します。たとえば落ち込んでいる時は前かがみの姿勢になり、ウキウキしている時は胸をはった上向きの姿勢になるように。腹部周辺には活動を抑制する副交感神経系が密集しているため、腹部を圧迫する前かがみの姿勢は副交感神経の神経伝達物質の流れを促進し、その結果活動が抑制され、気分も沈静化します。脊柱(背骨)周辺には活動を喚起する交感神経系が密集しているため、脊柱(背骨)に刺激を
与える後屈の姿勢は交感神経の神経伝達物質の流れを促進し、その結果活動が促進され、やる気が出てきます。つまり人間の身体の構造上、前かがみの姿勢で活動的になることはできず、胸を張った状態で非活動的な状態になることもできないのです。
落ち込んでいる時は必ず前かがみの姿勢になり、ウキウキしている時は必ず胸を張った姿勢になっている。ですから落ち込んで前かがみの姿勢になっている時に胸をはった姿勢をとってみるとそれだけで気分がすっきりしてやる気が起きてくるはずです。“幸せは空の上にある”という坂本九さんの「上を向いて歩こう」の歌はそういう意味で生理学的にとても正しい歌だと言えます。空の上を向いて歩けば自然と胸を張らざるをえませんから交感神経が優位になり落ち込んでなんかいられなくなるわけです(笑)。逆に気分が興奮して落ち着かない時は少し腹部を圧迫するような前かがみの姿勢をとってみれば自然と気分が落ち着いていくのがわかるでしょう。どんな動物も眠るときには背中を丸め、眠りから覚めて活動をしようとする時は伸びをしますが、おそらく自然界の動物たちは自然にこの姿勢と心の状態の関係性を理解しているのだと思います。このようにちょっと姿勢を変えてみるとそれによって心の状態を面白いほど上手にコントロールしていくことができるのです。
私は年に最低1回はヨガの勉強のために海外に赴くようにしていますが、海外から帰ってきて最近感じるのは日本人の姿勢の悪さです。特に前かがみの姿勢の男性の割合が非常に多いのがよく目につきます。私がよく訪れるインドでは日本よりもずっと生活が過酷な環境にあるにも関わらず男性たちも皆姿勢よくしゃんとして歩いているのとは対照的です。日本人はもともと体格が貧弱で体幹部を支えるための筋力が弱いのに加え、現在の日本の先行き不透明
な状況が今の日本人の前かがみ姿勢を作り出しているのでしょう。しかし、これでは今の日本を大きく変えていくために必要な活力が生まれるはずもありません。
かくいう私自身も20代前半までは親からしょっちゅう猫背を注意される前かがみ人間の一人でした。当時の私の心理状態はいつも目の前の世界に対して否定的で、気分がすぐれないことが多かったのを思い出します。ヨガには姿勢を正すために背中を鍛えていく様々な後屈のポーズが存在しますが、ヨガと出会い、とても苦手だった様々な後屈のポーズに地道に取り組んでいく中で、少しずつ私の前かがみの姿勢は改善されていきました。そして後屈のポーズの改善に取り組んでいたつもりが、気がつけば心理的に落ち込むことがほとんどなくなり、エネルギッシュな心の状態が長続きするようにもなったのです。
心で心の状態をコントロールしようとするのはとても大変ですが、姿勢なら今すぐ変えることができるはずです。試しにちょっと上を向いて歩いてみましょう。気分がすっきりしてどこからともなくパワーが湧いてくる感じがしませんか?
日本人全員がまた上を向いて歩ける時代が早くやってきますように。
2011年1月「言葉のちから」
ヨガの根本経典「ヨガ・スートラ」には「正直を確立すると行為と結果はその言葉につき従う」という一文があります(2.36)。仏教の十戒にも“不妄語”という戒律がありますが、“正直”とか“不妄語”というのは単に嘘をつかないということではなく、一瞬一瞬自分自身が使う言葉に対して意識的になり、正しく言葉を使っていくことであると私は解釈しています。言葉を正しく使っていくと現実世界もその言葉の通りになる。そんな意味のことがヨガ・スートラには書かれているのです。日本にも“言霊”という言葉がありますが、元来、言(こと)と事(こと)の二つの言葉は同じ意味で使われていました。
私たちが使う言葉は私たちの思考によって作られます。思考によって作られた言葉は私たちが行動を起こす上での基準となり、行動によって現実世界(人生)は作られていきます。そして現実世界は私たちの思考を作り出す源となります。つまり思考⇒言葉⇒行動⇒現実世界⇒思考⇒言葉⇒行動⇒現実世界・・・というサイクルの中で私たちは常に一瞬一瞬人生の歩みを進めているわけです。ですから私たちが今目にしている現実世界というのはそれが好ましいものであれ好ましくないものであれ私たちの思考(意識と無意識の総体)が現実化したものであると言えます(この原理についてはちょうど1年前のコラムでも書きました)。それが望ましいものであれば問題はないのですが、もし現実世界が自分の望む状態にない場合はどこかでこの“思考⇒言葉⇒行動⇒現実世界・・・”というサイクルを断ち切る必要があります。
この時自分の“思考”を直接コントロールしようとするのはとても困難です。なぜなら心理学では人間の思考のうち無意識の割合は90%を超えていると言われており、この無意識の部分をコントロールすることは非常に困難だからです(コントロールできた瞬間それは無意識ではなくなります。ただ、実際ヨガの実践を続けていくとだんだんと“無意識に意識的になる”つまり“意識化”の度合いを増やしていくことで思考に占める無意識のパーセンテージを減らしていくことは可能です。しかし、それでも無意識をすべて“意識化”することは難しいでしょう。)
また“行動”に関しても、ダイエットや禁煙に多くの人が苦労しているように、いったん身体にしみついてしまった自分自身の行動パターンを変えるのはなかなか容易ではありません。
しかし、“言葉”を変えるのは思考や行動のパターンを変えるほど難しくありません。そして言葉を変えれば行動が変わり、それが現実世界を変えていく原動力になるのです。試しに「最悪」とつぶやきながら何か行動(仕事、家事、料理・・・)をしてみてください。絶対に最高の行動は生まれないはずです。そして今度は「最高」とつぶやきながら同じ行動をしてみましょう。自然と身体の奥からエネルギーが湧いてきてウキウキしてくる感じがしませんか?ただある言葉を心の中でつぶやいただけで、その言葉は私たちの行動に、そしてその先に広がる未来の現実世界に大きな波紋を広げていくのです。ネガティブな言葉を使うと行動がネガティブになり、ネガティブな現実がやってくる、そのネガティブな現実を目にして思考がネガティブになり、またネガティブな言葉を使う・・・。今の日本は容易にネガティブな言葉を使いすぎて、このネガティブさの悪循環にはまってしまっているように私には感じられます。
かくいう私自身もヨガを始める以前は“最悪”、“ウザい”、“チョベリバ”など今では聞くだけで虫唾が走るような言葉を平気で使う人間でした(最後の言葉は冗談です)。その当時の自分の人生を振り返ってみると仕事はうまくいかず、いつもお金に困り、不健康で、人間関係(特に家族との関係)も最悪な現実世界の中で生きていたのを思い出します。
しかし、ヨガを学び始めて少しずつ自分の無意識的な言葉遣いに意識的になり、ネガティブな言葉を極力使わないように注意するようになるにつれ、少しずつ現実世界も変化していきました。お金に困るということが減り、身体がいたって健康になったばかりでなく、人間関係(特に家族との関係)がいろいろな意味で良好になり、自然と“最高!”という言葉が出てくるような人生を送れるようになったのです。先日も久々に家族総出で初詣に出かけた際、帰りに温泉に寄ったのですが、この年になって父と同じ湯船につかれたことは私にとってはいろいろな意味で “最高!”の経験でした。父に反発していた“最悪”の頃の私には考えられなかったことです。
それでも私も自分の望まない事態が起きた時に最悪!と思わずつぶやいてしまうことがあります。そんな時私は“10秒ルール”と言って10秒以内に“じゃなくて最高!”とまったく思っていなくてもとりあえず言い直すようにしています。そうやって最高!と言葉を口にした瞬間、どうしたら自分の望まない事態を最高!の事態と捉えることができるのだろうか?と自分の言葉に思考を合わせる模索が始まります。そしてそれを繰り返していくうちに、自分自身の無意識のネガティブな思考パターンが変わり、気付いた時には本当に最高!の現実世界が目の前に広がるようになるのです。
まったく同じ言葉も心の中で想起するよりも口に出したほうが、口に出すよりも紙に書いたほうが言葉の持つエネルギーは強くなっていきます。そして同じ紙に書くにしても書く道具によって、鉛筆⇒ボールペン⇒万年筆⇒毛筆の順に言葉の持つエネルギーは強くなります。ですから正月に毛筆で書初めをするという日本の文化は本当に素晴らしいと思います。自分の求める世界を象徴する言葉を書いた書を掛け軸にして、ネガティブな思考がやってきた時にいつでも目に入る位置に飾っておくだけで、その年に目の前に広がる現実世界は大きく変化することでしょう。
さて、皆さんは今年どんな言葉を使っていきますか??
2011年が皆さんにとって実り多い年でありますように。
2010年12月1日「幸運のコイン」
私のお気に入りの小説の一つに「ぼくと1ルピーの神様」という小説があります。
この小説は「トレイン・スポッティング」のダニー・ボイル監督が「スラムドッグ$
ミリオネラー」というタイトルで映画化し、2009年のアカデミー賞8部門を受賞し
ているので映画をご覧になった方は多いかもしれません。
舞台はインド第一の都市ムンバイ。主人公の少年はスラム(貧民街)で育った18歳の少年で、この少年がインド版「クイズ・ミリオネラー」(みのもんたさんが司会を務めていた“ファイナルアンサー?”のクイズ番組、覚えてますか?)で全問正解し、10億ルピー(約25億円)を手に入れるというお話です。少年は赤子の時に両親に捨てられ、物乞いの憐みを得るために同僚の子供たちが目をつぶされていく孤児院で育ち、実の父親同然に自分を育ててくれた神父を目の前で殺され、実の母同様に養ってくれた女優が自殺するのを間の当たりにし、初めて本当に好きになった女の子が12歳という若さで家族を養うために売春宿に売り飛ばされた売春婦、という現代インドの発展の裏にある貧困と深い闇の中を地で生きるような人生を歩んでいくのですが、この過酷すぎるような彼の人生すべてがクイズで正解を続けるために必要不可欠な経験として小説では描かれていきます(もっとも少年がクイズに参加した目的は賞金とは全然別のところにあるのですが)。
映画では省略されていますが、小説では主人公の少年が重要な決断をする時、幼い頃に出会った占い師からもらった“幸運のコイン”をトスして、表が出ればOK!、裏が出ればNo!という決断をしていきます。しかし重要な決断をするときコインは決まって表になりOK!のサインを出すのです。実はこのコインは両面とも“表”になっていて、つまりOK!のサインしか出さないコインであることが最後の最後にわかるのですが、人生どんなに過酷に思える状況もすべてその時の自分にとって”表”つまりOK!なんだという、ヨガの教え通ずるこの小説の結末が私はとても気に入っています。
私は休みの日はなるべく郊外に足をのばし自然に触れるようにしているのですが、先日三浦半島まで愛車を走らせ出かけた際、わずか3時間余りの間に2回もパトカーにつかまり交通違反で切符を切られるということがありました。1回目は方向指示器不表示のため、2回目は右折禁止の標識を見落とし右折したためです。私は過去5年間無事故無違反のゴールド免許所持者だったのですが、この日に限って二度もパトカーに捕まり、罰金1万5千円の支払いに加え、次回更新時にはゴールド免許は取り消しで保険料も大幅に上がってしまうことになってしまったのです。2回目の切符を切られた時はさすがにこんなことになるなら三浦半島なんかに来ずに自宅でゆっくり本でも読んでいればよかったと一瞬思いました。
以前の私だったらくどくどと警官に悪態をつき、2,3日は気分を害し続けていたかもしれません。しかし、こんなことが起こるのは自分への何かしらのメッセージに違いない!と頭を切り替えそのメッセージの意味を探ってみると、5年間無違反だったのをいいことに自分の運転がどんどん荒くなっていたことに気付くことができました。そして、これは運転を改めなさいというメッセージだと判断した私は、それ以降安全運転にとても気を使うようになりました。
その3週間後、今度は雨の高速道路を運転中に突然タイヤがスリップしてハンドルが効かなくなり、あと少しで中央分離帯にぶつかる!ということがありました。もし3週間前に違反切符を切られずもう少しスピードを出していたら、スリップした車は確実に中央分離帯にぶつかり大破していたと思います。そうなったら今頃ヨガを教えるどころではなかったでしょう。もしかしたら命を失っていたかもしれません。三浦半島で警官につかまり1万5千円の罰金を払っておいたおかげで私は命拾いをすることができたのです。この経験から私は自分の手にもしっかりと幸運のコインが握られていることを確信したのです。だから、今ではあの時めざとく私の違反を見つけてくれたパトカーの警官たちに感謝したい思いでいっぱいです(笑)。
今年も残すところあとわずかとなりましたが、皆さんにとってこの一年はどんな年だったでしょうか?このコラムを読んでいる読者の皆さんもやはりいろいろあった1年だったと思いますが、自分の望む出来事が起こる時も、自分が望まない出来事が起こる時も私たちの手にはいつも“幸運のコイン”がしっかりと握られていることを忘れずに、一緒に残された2010年の日々を過ごしていきましょう。
2010年11月1日「楽園へ行く方法」
その昔ある国に“楽園へ行く方法”なるものがあり、楽園へ行きたい者はその国の山の中腹にある小さな洞窟へ必要最小限の水分だけを携えて入り、三日三晩を過ごさなければならなかったそうです。洞窟に入るとすぐに入口にふたがされ、周囲は真っ暗になります。地中からの地鳴りの音が響き渡り耳をつんざきます。また、空気の出入りもなくなり地熱がこもるので汗は止まりません。そんな過酷な環境下で一日経つ頃にはだんだんと五感がマヒしていき、二日経つ頃には空腹とのどの渇きで疲労感がピークに達し、三日目の晩を迎える頃には意識がだんだんと遠のいていきます。そんな遠のく意識の中で彼はまばゆい光を目にするのです。最後の体力を振り絞って光のほうへ這っていくと光はどんどん強くなり、同時に芳しい花の香りが漂ってきます。耳を澄ませば美しい鳥のさえずり声が聞こえ、さわやかで新鮮な空気も満ちています。遂に楽園に辿りついたぞ!歓喜に湧きながら少しずつ光に目が慣れていくとその楽園の姿が少しずつ鮮明になっていきました。そのとき彼は気付くのです。その楽園は三日前に彼がいた元の世界だったということに・・・。
チリの落盤事故から70日ぶりに33人が救出された時、私は真っ先にこの話を思い出しました。救出作業が始まった当日、行きつけの中華料理屋のテレビにはちょうど2番目に救出されたマリオ・セプルベダさんが映っていて、閉所恐怖症でなくても息がつまりそうな小さなカプセルで地上に戻ってきたマリオさんは、カプセルが開くと同時に70日間地下にいたとは思えないほどエネルギッシュに飛び廻りながら地上で待っていた関係者たちに次々とハグをして喜びを爆発させていました。マリオさんに起こったのは今私たちがいるこの世界に戻ってきたこと、ただそれだけです。しかし地下で70日間を過ごしたマリオさんにとってはこの私たちがいる世界に戻って来れたことがそれだけでこの上ない喜びだったわけです。それは彼が今私たちがいるこの地上の世界がまぎれもなく楽園であることを知っていたからではないでしょうか・・・。
私はヨガを教え始める前、転職活動がうまくいかずに日雇いのアルバイトをしていた時期がありましたが、その時時給がいいという理由で選んだのがビルの解体現場の“がれき”運びというアルバイトでした。時給がより高くなる真夜中、重機が壊したビルの“がれき”をひたすら運び続ける。それが私の仕事でした。体力には自信がありましたが、密室に近い解体現場には粉塵が立ち込めているため目はすぐに真っ赤になり、マスクなしではとても苦しくて呼吸ができません。暑い夏の夜、少し動くだけで汗がだらだらと流れ出し身体にまとわりつきます。一緒に働いていた作業員には前歯が欠けている人が多かったのですが、すぐに天井から落ちてくる“がれき”が原因だとわかりました。そんな現場で一晩中“がれき”を運び続けるわけですが、長い人生の中でこの時ほど朝が待ち遠しかったことはありません。いくらお金のためとはいえ本当に辛い労働でした。だからチリの落盤事故は地球の裏側の出来事なのに私にはとても他人事には思えなかったのです。
それほど長く続けたわけではありませんが、私もそんな労働を経験したおかげでその後は空気のいい清潔な場所で安全に仕事ができる、ただそれだけでどんな仕事もとてもありがたくハッピーにこなせるようになりました。ですから今ではあの時解体現場での仕事を経験しておいて本当によかったと思っています。
そんな風に考えてみると私たちが探し求めている楽園は気付きさえすれば本当は今この瞬間私たちの目の前に広がっているのかもしれません。私にはチリの落盤事故はせっかく楽園にいるのにいつも不平不満たらたらの地上に生きる私たち全員へのメッセージのように思えてならないのです。
因みにチリの落盤事故で救出された33人のうち70日間も地下に閉じ込められていたというのに夫婦関係のもつれが原因で奥さんが救出現場に迎えに来なかった作業員が何人かいるらしいのですが、きっとそんな逆境の中でも彼らはもう楽園がどこにあるのかを忘れずに満たされた人生を歩んでいけるんじゃないでしょうか(笑)。
楽園の場所をいつも忘れずに生きていきたいと思う今日この頃です。
2010年10月1日「執着と経験と人生」
ヨガの根本経典「ヨガ・スートラ」には私たちがなぜこの世界に生まれついたのかについて非常に興味深い記述が見られます。
「見られるもの(この世界)は見る者(私たちの真の姿)に経験を与えるためだけに存在する」
(ヨガ・スートラ2・21)。
”見られるもの”というのは今私たちが生きているこの世界のことです。私たちが生きているこの世界は私たちが経験を積み自分自身の真の姿を思い出すために与えられた見世物小屋のようなものである。これがヨガにおける世界に対する見方なのです。
私たちは肉体をもってこの世界に生まれた瞬間から様々な執着を抱き始めます。母乳に始まり、人形、おもちゃ、学校の成績、恋愛、仕事、結婚、家、地位、名誉など。成長するにつれて少しずつその執着の対象は変化していきます。そして執着がある限り私たちはその自らの執着によって苦しみ続けます。
では、何か特定の対象に対する執着をなくすにはどうすればいいのでしょう?たとえば冬物のコートがほしくなった時、ダメダメ、ヨガに“貪るなかれ”って教えがあるから去年のコートで我慢しなきゃ!といくら自分に言い聞かせてもコートに対する執着が消えることはまずありません。いくら心に言い聞かせようとしても街角で最新の冬物のコートを見るたびにコートに対する執着心は逆に強くなるのが落ちです(ファッション業界は巧みに一年前のコートを着させないように私たちの心理を操りますから(笑))。では冬物のコートに対する執着心をなくすにはどうすればいいかというと、それはおわかりの通り欲しいコートを買ってしまえばいいわけです。手に入れてしまえば心は満足してもうその対象のことを思い浮かべることはなくなります。
このように私たちは人生を歩んでいく中で何かに執着し、その執着する対象を手に入れるという経験を繰り返すことで執着を一つ一つ消していくわけです。コートと一緒でそれが手に入らいないといつまでもその対象に対する執着は残り続けます。未消化の経験はいくつになっても執着として残り続けるのです。ですからインドでは古来「四住期(アーシュラマ)」と言って人生を四つの時期に分け、人生の前半ではしっかりと学業を修め、家庭をもち、財を築き、充実した性生活を送ることが社会的に奨励されています。
仏陀はおそらく人類史上最速で人生におけるすべての執着を手放すことに成功した人物だと思われますが、彼が悟りを開く上で重要だったのは一般的にはその厳しい修行だったと考えられています。しかし、私はそれよりも重要だったのは彼の生まれのほうだと思っています。彼は一国の王子として生まれたので幼い頃から望むものは何でも手に入れることができました。16歳で国一の美女を妻にし、優秀な子供をもうけ、30歳になるまでにすべての財と地位と名誉を手に入れ尽くしていたのです。だからこそ未経験だった苦行を経験することで酸いも甘いもすべてを経験し尽くし、35歳という異例の若さで全ての執着を手放すことができたのでしょう。この仏陀の出生の背景を忘れてただ仏陀が行った厳しい修行ばかりを真似ても絶対に悟りは得られないと私は思っています。
10代後半から20代前半まで私の執着の対象は「肉体的な強さ」でした。おそらく少年漫画の読みすぎとテレビゲームのやりすぎだったのでしょう(苦笑)。少年漫画やゲームのヒーローのように肉体的に他の誰にも負けないほど強くなりたい。そんな肉体的な強さへの執着から空手、柔道、合気道、そしてブラジリアン柔術と様々な
格闘技の門をたたきました。当時の私は毎日のように道場に通い、狂ったように練習に励み、将来は格闘技の道場を開くと心に決めていたものです。
しかし、8年ほど様々な格闘技を続けていく中で自分の体重の倍ほどある相手でも組みふせることのできる絶対的な自信を手にいれるようになった私は、ある日突然自分の中で肉体的な強さに対する執着が消えていくのを感じたのです。相手を組みふせてそれがいったい何になるのか?8年間一度も考えもしなかった疑問が私の脳裏をよぎった瞬間、それまで毎日のように通っていた道場通いをぱっとやめてしまったのです。私の中から「肉体的な強さ」に対する執着が落ちた瞬間でした。もし私が8年間の格闘技人生を通して肉体的な強さを手に入れていなかったら未だに私は肉体的な強さに対する強いこだわりを持ち続けていたかもしれません。
このようにある執着をなくす為にはその執着の対象をとことん追求し、手に入れ経験する他ないというのが人生の法則のようなのです。パタンジャリがヨガ・スートラ第三章でサンヤマ*の力を使ってほしいものは何でも手に入れてしまいなさい、と私たちに諭しているのはそのためです。様々な経験を通してほしいものすべてを手に入れ、全ての執着が消えて心がこの世界の何事にも乱されることなく平穏になった状態。それが私たち本来
の姿であり、その時私たちはもうこの世界にいる必要が無くなり、この世界を卒業(解脱)していくわけです。ヘルマン・ヘッセは傑作「シッダールタ」の中でこの人が解脱に至るプロセスを非常に美しく描いています(まだ読んだことのない方はぜひご一読ください!)
だから私はうちのスクールに来る生徒さんたちにアーサナの練習ばかりやっていては駄目だよ!もっとヨガ以外の経験をしないと!とよくアドバイスします。人生は長いようで短いですから、やりたいことは何でもやって手に入れたいものは何でも手に入れていかないといつまでも執着が残ってしまいますので・・・。
とは言え、全ての執着がなくなったらこの世はもう卒業なわけで、私自身常日頃今の自分の執着に素直に、執着を消化するプロセスを楽しみつつゆっくりと一歩一歩前に進んでいきたいと思っています。
さて、今年の冬物はどこに買いに行こうか・・・。
*サンヤマ
特定の対象に対して非常に強く意識を集中し続けること。自分の手に入れたい対象を現実化する作用を持つ。
「引き寄せの法則」の原点。
2010年9月1日「草食糸と肉食系の本当のところ」
ヨガには「食は人なり」と言って、その人が食べたものがその人を作るという考え方があります。食べ物が身体を作るのは当然ですが、この「食は人なり」という言葉は身体だけではなくその人の心や精神状態までも食べ物によって左右されるということを意味しています。
たとえば動物性の食べ物をたくさん摂ると、動物は動くエネルギーを持っているので私たちの内側にもその動くエネルギーが満ちていき、心の状態がいらいらして落ち着かなくなるわけです。また動物の肉には動物が殺される時の恐怖心や怒りが充満しているので、肉には怒りや恐怖心などの負の感情を作りだす作用があったりします。さらに肉は一時的に体内のエネルギーを高め活力を生み出しますが、その活力は長続きせず続いて強い疲労感を与えるのが特徴です。
ここ最近日本ではほぼ毎年首相が変わっていますが、ここまで頻繁に首相が交代する国は世界的に見ても日本くらいのものです。交代して一年やそこらで結果を出すのはどんな優秀な政治家でも無理なのは分かっているはずなのに、多くの国民が首相の政治的な取り組みをじっと見守る忍耐力を持ち合わせていない。今度は発足後三カ月もたっていない菅政権を大きな失策もないのに交代せさるような議論が盛んになっていますが、これはもう異常としか言いようがありません。昔はその辛抱強さで有名だった日本人が今では世界一こらえ性のない国民になってしまったようです。
私はその背景に日本人の食生活の変化があると思っています。一昔前までは伝統的な一汁一菜という質素な菜食中心の食生活をしていた日本人でしたが、現在ではハンバーガー、牛丼、焼き肉など安上がりな肉食中心の食生活を好むようになりました。外食で肉を出さない店を探すのは非常に困難です。この日本人の肉嗜好がキレやすく、疲れやすく、こらえ性のない現在の日本人の心の状態を生み出したというのが私の考えです。
私も10代後半から20代前半の頃までは格闘技に没頭していたこともあり、肉食が中心の食生活を送っていました。外食する時もステーキや焼き肉を好んで選び、ともかく肉を多く摂って筋肉をつけることを重視していたのです。その頃の自分の心理状態を思い出すと常に他人に対して敵対心をもっていて、気分の浮き沈みが激しく、何事もネガティブに考える暗い感情が渦巻いていました。衝動的なパワーは出るのですが、それが長続きせずすぐ疲れてしまい、反動で何事もやる気が無くなるというパターンもしょっちゅうでした。
ヨガで奨励される食べ物は野菜と穀物、果物ですが、これらはどれも植物のエッセンスが凝縮された部分です。植物は一度根を下ろしたら不動の状態で暑さや寒さなどの環境の変化をじっと耐え忍びながら黙々と根を広げ、枝を伸ばし続けます。怒りや不満を持つ植物というのはこの世に存在しません。野菜や穀物、果物を摂り続けるとこれら植物のもつエネルギーが内に満ちていき、怒りや不満が消え、忍耐力がついていくのです。
ヨガと出会ってから少しずつ食生活を動物性の物から植物性の物へ変化させていく中で、私は自分の心の状態の変化を実感するようになりました。菜食中心の食生活をするようになると、以前持っていた敵対心や気分の浮き沈み、ネガティブな感情や疲れやすさが消え、安らかで平穏な心の状態が長続きするようになったのです。今では少量の肉を食べただけで自分の心の状態が大きくかき乱されるのがよくわかるようになりました。
最近読んだ雑誌にはマイク・タイソンが最近菜食主義になってそれまでの暴力性に満ちた自分に決別したというインタビューが載っていて、とても穏やかな表情をしたタイソンの写真が掲載されていました。あのマイク・タイソンが菜食主義になったというのは意外に感じるかもしれませんが、アメリカでは1970年代後半に「マクガバン・レポート」という菜食が食の理想であるという研究レポートが発表されて以降、国がかりで菜食主義を盛り上げる政策がとられたこともあり、菜食のメリットに対する理解は日本よりもずっと浸透していたりします。また争いを好まない国民性を持つことで有名なインド人は国民の70パーセント以上が菜食主義者で、彼らの過酷な環境に負けないタフさと辛抱強さには渡印するたびに感心させられます。
菜食中心の食生活になると男性の性欲が減退するのではないかと心配する方がいるかもしれませんが、ウマを見ればわかるように草食動物の性欲は意外に旺盛だったりします。ただその性欲も衝動的ではなく、ゆったりとしてコントロールのきく持続力のあるものに変わるというのが私の実感です。
性欲の話はともかく(笑)、動物性中心の食事から植物性中心の食事に切り変えることで様々な意味で持続性が生まれ、何事もゆったりとしてコントロールのきく状態になっていくというのは確かなようです。
日本人の多くが安い肉料理ではなく、多少値が張っても安全な無農薬の野菜と果物中心の料理を選ぶことができるようになった時、本当の意味で日本の再生が始まるのかもしれません。そんな日が一刻も早くやってくることを願ってやまない今日この頃です。
リラヨガのデザイナーである優子さんが旦那様と無農薬野菜を作っていて毎月宅配してくれます。
「あるまま農園」のホームページはこちら
2010年8月1日「平等の境地」
ヨガの根本経典「バガバッド・ギータ」の中で神の化身であるクリシュナは心迷える
戦士(心迷える私たち人間の象徴)であるアルジュナに対してこんな言葉を投げかけます。
「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等のものとみて、ヨガに立脚して諸々の行為をせよ」
成功と不成功、自分の望む出来事と望まない出来事を同じように受け入れられる“平等の境地“、それがヨガの目指す最終ゴールなのです。自分が望んだ出来事を受け入れるのは難しくないですが、ひとたび自分が望まない出来事が起こると同じようにその状況を受け入れるのはとてもチャレンジングなことだったりしますよね。
私は5月末にティーチャートレーニングを受けるためにアメリカのボルダーに渡った際、ダラスで一度飛行機の乗り継ぎをしなければなりませんでした。ダラスでの乗り継ぎ時間は約50分。私が乗る飛行機がダラスに到着した時刻は到着予定時刻を20分ほど過ぎた頃だったので、入国審査を足早に済ませ広い空港をモノレールで乗り継ぎようやく乗り継ぎ便のチェックインカウンターに着いたのは出発予定時刻の3分前でした。
カウンターの周りはもう人気がありません。でもなんとか間に合った!と思いいざチェックインしようとすると、カウンターには一人のおばちゃんがいて何やらクレーム
を言っているのです。すぐ終わるだろうと思っていたそのクレームはやたら長く続き、一刻も早くチェックインを済ませたかった私の心は次第に波立っていきました。
「おばちゃん、早くクレームを終えてくれ!飛行機が行ってしまう!」
心の中でそう叫びながらもなんとか平静を装い待つこと数分。ようやくおばちゃんがクレームを終え、私がチケットを見せると、カウンターの係員は
「ああ、その飛行機なら今ちょうど飛び立ったところよ。」
とそっけなく言うではないですか。
自分が乗り遅れるだけならいいのですが、私は荷物をその飛行機に預けていたので荷物だけが飛んで行ってしまったわけです。この時差ぼけとフライトの疲れが残る中ロストバゲージを探さなければいけないのか・・・とその時私は平等の境地とは程遠い”絶望の境地”に至りました(笑)。
肩を落とす私に係員は一時間後に同じ行き先のフライトがあるからそれに乗って目的地に行きなさいと言います。正直わずか一時間後に同じ目的地へのフライトがあるというのは驚きでした。荷物はどうなる?と聞くと「No problem!」の一言。いやプロブレムはあるだろう!とよっぽどつっこみたかったのですが、長旅の疲れと
英語脳に慣れていないことが重なりつっこむ気力を失っていた私はしょうがない、とここでようやくことの全てを受け入れることにしたのです。そして次のフライトまで一時間あるなら時間を有効に使おう、と見つけたスターバックスでカプチーノとサンドイッチを手に入れ腹ごしらえをしました。
そんなわけで予定より一時間少々遅れて目的地のデンバー空港に到着し、気をもみながら手荷物受取所に行くと心配していた私の荷物はなんと一つぽつんとコンベアーの上を回っていて、難なく無事に受け取ることができました。またダラスで腹ごしらえをしたせいで気力も回復し、宿泊先に到着した後はショッピングモールまで30分ほど歩いて移動用のマウンテンバイクを買いに行くこともできたのです。おかげで翌日から始まったトレーニングは万全の態勢で臨むことができました。もし予定の飛行機にぎりぎり間に合っていたら、くたくたのままの私はマウンテンバイクを買いに遠出をする気力を失っていたかもしれません。終わってみればすべては私にとってベスト
(No problem!)な出来事だったのです。だから今ではクレームを続けてくれたあのおばちゃんに感謝したい気持でいっぱいです(笑)
人は自分が望まない出来事が起きた時はそこに“problem”があると思いこむものですが、その自分が望まない出来事の奥に隠された意味をよくよく探っていくと、すべての“problem”は自分が勝手に作り出した幻影のようなものなのかもしれない。今回の経験を通して改めてそんなことを実感しました。今度飛行機に乗り遅れた時はおそらく
もう少し落ち着いて事態を見守れる自分でいられるような気がしています(それより乗り継ぎ時間にはしっかり余裕を持ってチケットを手配するのが先ですね)。
いつどんな時でも“No problem!”とほほ笑んでいられる自分でありたい。そう思う今日この頃です。